ここに現在も残っている田辺城の痕跡は、城壁の一部と土台の礎石だけです。しかし正門と一部の石垣は再建され、舞鶴公園として一般公開されています。また門の上の建物は、田辺城の歴史と住民の記録を展示する博物館になっています。 田辺城は、1580年にこの土地を治め、細川藤孝としても知られる細川幽斎(1534年~1610年) のために建てられました。交通の利便性を考慮し、田辺城は通常よりも低い土地に建てられました。これは北西にある宮津城にも当てはまります。しかし細川藤孝は1600年の関ヶ原の戦いの数か月前に、石田光成の軍に包囲されたのです。細川藤孝の息子である細川忠興(1563年~1646年)は、関ヶ原の戦いのため、ほとんどの軍を関ヶ原に送ったため、細川藤孝はわずか500人で、石田光成の15,000人の軍と対峙し、田辺城に籠城しなくてはなりませんでした。この戦いは52日間続きましたが、細川藤孝の素晴らしい和歌の才能により、天皇が介入して戦いが終わるという珍しい事態になったのでした。 こうして田辺城は17世紀初頭の激動を乗り越えましたが、明治政府が全国の城の廃城を命じた後、1874年にほぼ形が無くなりました。田辺城址の博物館は、城跡から回収された弾丸などの遺物も展示されています。