浦上天主堂には悲劇的な歴史があります。多くのキリシタンがいた浦上地域では、18世紀後半から19世紀後半にかけて繰り返し大規模な摘発が行われ、キリシタンたちを苦しめました。1865年、浦上からやってきた女性が、長崎の大浦天主堂でベルナール・プティジャン神父に日本の潜伏キリシタンの存在を明らかにしました。皮肉なことに、これを受けてプティジャン神父とパリ外国宣教会の仲間たちが行った宣教活動は、3,000人以上の浦上キリシタンが日本各地に流刑にされた最後の大弾圧「浦上四番崩れ」の引き金となりました。 1873年にキリスト教が解禁されると、無事に帰郷した浦上キリシタンたちは礼拝を行える教会を求めました。当初は仮の教会を設けていましたが、1895年、ピエール・テオドール・フレノー神父の指揮のもと、石の装飾が施された赤煉瓦造りのロマネスク様式の教会の建設が始められました。資金不足に悩まされ、信徒たちはこの天主堂を建てるのに20年間を費やしました。天主堂はフレノー神父が亡くなってから3年後の1914年にようやく献堂されましたが、2つの鐘楼が完成するまでには、さらに11年の歳月がかかりました。完成当時、浦上天主堂はアジアでも最大級の教会でした。無原罪の聖母教会という正式名称を持つ浦上天主堂は、カトリック長崎大司教区の司教座聖堂です。 この天主堂の建設地には、250年間にわたって踏絵で地域のキリシ